子どもたちに伝えたい。残したい。パパからの遺言。

余命宣告を受けてるわけではありません。いたって元気です!自分の経験、子どもたちと一緒にすごした時間を彼らのために残しておきたい。

自分が経験したことのみを記事にします。いつか自分の子どもたちにも伝わりますように。

18歳ぐらいになったら君たちにこれを知ってほしい。
【自分の心】を大切にしないとこういうことになります。
いまから書くのはパパが35歳、ママが32歳くらいの出来事。

ある日の朝、パパはママにこう言った
「もうだめかもしれない。病院に行ってくる」

前兆はもっと前からありました。会社から帰宅するのはいつも0時過ぎ。
ママは食事を作り、ただ配膳をするためだけにいつも起きて待っていました。
「おいしい?」ママの何でもない一言に素直に返事ができませんでした。
「今ようやく自由な時間なんだ、話しかけないでくれ」
「話しかけて良くなったら教えてね」
あまりにも悲しい会話。もう周りのことなんて見えない。
自分がいかにして明日の出社までに気力を回復させるか。
それだけしか見えていませんでした。
なんでも無いタイミングで茶碗を落とすこともしばしば。
口にするものの味さえ感じない時期だってありました。

当時はこう思っていました。
なぜ俺だけがいつも矢面に立たされるのだ。なぜ周りの奴らは無責任に返ってしまうのだ。俺がいなかったらどうなる?自分が司会をしている会議で、報告を自分が行い、その内容を自分で議事録にする?あり得ない。周りの奴らがもう少し有能であれば。
それでも立場上いろいろなところでぺこぺこぺこぺこ。朝方に近い帰り道のタクシーの中。もう勘弁してくれ。もう勘弁してくれ。
一方で、そんな日々の中、思うように出世できない、もう一歩踏み出しきれない自分にもいらだっていました。そして、このままこの仕事を続けるべきかもその1年ほど前から悩んでいたのです。
パパとママの信頼関係にも少しずつひびが入り始めていました。仕事に忙しく、イライラしがちで大きな声を出してけんかをすることもしょっちゅうありました。あるときスイッチが入ってしまうとまったく自分をコントロールできない。そんな最悪の時期にあっても暴力を振るうことが無かったことが唯一の救いでした。その一線をもしも越えてしまっていたら。今の家族の姿はまったく違ったものになっていたか、もしくは家族そのものは無くなってしまっていたでしょう。
家庭、仕事、どちらもうまくいかないこんな状況が1年は続いたと思います。
前の日にもママと言い争いをしていたある日の朝、音もなくパパの心は折れました。

「もうだめかもしれない。病院に行ってくる」

パパとママは泣きました。

近くの心療内科で設問が30個ぐらい並ぶチェックシートのようなものに回答しただけだったと思います。先生との簡単な会話の後にパパはうつ病と診断されたのでした。
2012年12月24日の出来事です。
22歳からサラリーマン生活を始め12年。それまで必死に努力をしてきたと自分でも思っていました。でも楽しくて仕事をしていたわけではなかったのです。完全に電源が切れた瞬間です。
その頃のパパとママは、それより前の期間におきたいろいろな出来事の積み重ねにより、決して良い関係の夫婦であるとはいえない状態でした。
パパはもう俺は病気になるほど頑張ったんだ。後はおまえが俺を支えるべきだ。この病気を治すために一緒に頑張ってくれ。と一方的に主張。
ママはもう十分頑張っている。これ以上何を頑張れば良いの?子どもの世話だってあるのよ。何をどのように頑張れば良いかわからない。と考えていたと思います。
こんな状況の中でどうやってこの病気と対峙していくのか。心療内科の待合室、全く先が見えない状況で先が真っ暗だったことだけを覚えています。途中で投げ出してしまう仕事もたくさんあったし、そのときにはまだ、年末年始だけを自宅で休んで年初の出社日からは仕事に復帰するつもりでいました。だけど、そんなに簡単にはいきませんでした。重要な役割を果たしていた人が突然出社しなくなったのです、その診断から4日間の間、自宅にはいたものの仕事の問い合わせも多く入り全く休まることはありませんでした。会社のメンバーには単なる胃腸炎と説明していましたから当然のことではあったのかもしれません。年始になるとさすがに直接の連絡は途絶えますが、今度はパパの心の中での葛藤が始まります。本当にあの場所に戻ってまた仕事ができるのか、今一番大事にするべきは家族では無いのか、単なる仕事の関係でしかない取引先の人たちのために自分の唯一の人生を犠牲にするのか、今までお世話になった会社に迷惑をかけることになる早く復帰しなくては、突然一週間も休むのなんてみっともない、会社に退職の意思は伝えているが合意はできていない、もしも残ることになった場合これ以上休めば降格は確実だ、そもそも収入はどうする、このまま病気で立ち直れなければ家族の収入はどうなる、ここまで積み上げてきたキャリアはすべて捨てるのか、仕事に復帰か、心を治すのが先決か、だめだ。またあの場所で仕事をするのはもう無理だ。もっと巨大なストレスでまた家族を傷つけてしまう。もう解放してくれ。

会社には3月までの休職を申し出て受理されました。

今のわたし。

40歳と11ヶ月。男性。

3歳下の妻との間に

8歳のおとこの子、4歳のおんなの子を授かりました。

どこにでもある幸せな4人家族です。

家族の中は悪くないし、食べるものにも困っていない。

たまには豪華な外食もする。家族旅行だってたくさんする。

そう。現在、恵まれた人生を過ごしていると思います。

5年前の挫折。

約5年前まではバリバリのサラリーマンでした。

証券会社・保険会社などのシステムに携わる

エンジニアとして働いたのです。

しかし、大学卒業後から順調にサラリーマン生活を

続けていたわたしは約10年つとめた会社を突然に退職しました。

心身に無理を重ねた結果、うつ病を発症したのです。

同じ場所には戻らない。

最初の目標はうつ病の克服だったわけですが

そんな簡単に退治できる病気ではありません。

家庭が崩壊しそうなときだってありました。

しかし、うつ病と闘いながらも

ぼんやりと掲げている目標がありました。

うつ病を乗り越えたときに、
戻る場所は元いた場所ではなく
元よりはるか高い場所に戻る


つらさを乗り越える過程で自然にわいてきた目標でした。

どうせ挫折したんです。

ついでに色々と高みを目指したいなと
考えたわけです。

うつ病は克服。

うつ病は数年かけて完治ました。間違いありません。

どんな考え方がその病気を引き起こすのかも理解しました。

そういう意味ではたしかに元々いた場所よりは

たかい場所に着地をしたのかもしれません。

しかし、それでもまだまだ満足することができません。

自分はまだまだ未熟であると感じる毎日です。


だから伝えることにした。

なにかを始めなくてはいけない。いままでと違うなにか。自分が打ち込めるなにかを。

これから先はせめて人の役に立ちたい。

ようやく決めました。

文章を書くのは元々嫌いじゃ無い。

だったら、いままでの経験、これからの経験、

すべての思いやできごとを書き続ける。

ただ書き連ねるだけでは面白くないんだし、

伝えたい相手は愛するわが子たち。

分野はすべて。

このブログは無期限、無限に広っていく、

パパが子どもたちに残す専用のキャンパスです。


いつの日か。

いまはまだ小さい2人だから理解できないかもしれない。

彼、彼女が成長していく過程で少しでも役にたちそうなものは、

すべてここに書き残したい。

パパはこれから全力で君たちに何かを伝えます。

まずは
パパがどうやってうつ病を克服したかを教えるよ。

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