子どもたちに伝えたい。残したい。パパからの遺言。

余命宣告を受けてるわけではありません。いたって元気です!自分の経験、子どもたちと一緒にすごした時間を彼らのために残しておきたい。

自分が経験したことのみを記事にします。いつか自分の子どもたちにも伝わりますように。

タグ:パパ

もう少し二人が大きくなったら知っておいてほしい。2018年現在は、会社という組織があって、働いている多くの人はサラリーマン、つまり会社に属して、与えられた仕事をこなし、その分の報酬をもらう、そういった人がほとんどの割合を占めている、そんな世の中です。
そのサラリーマンの世界は難しい人間関係や長時間労働の問題などあらゆる問題が山積みになっています。パパはそんなサラリーマンの世界へ22歳のときに飛び込んで、34歳ぐらいまでを過ごしました。仕事の忙しさからくる精神的な疲弊、そして何より自分の心というものとしっかりと向き合うこと無く、なんとなくの人生を過ごしてきてしまったことが作り出した精神的な弱さ、その2つがサラリーマン人生の末期である数年間のパパをひたすら苦しめました。もちろんその結果、その何倍もママを苦しめることになりました。だから2人に伝えたい。パパが会社を辞めるまで。

2012年12月24日。パパは34歳のときにうつ病と診断されます。

それまでの10年間、仕事はとても順調でした。持ち前の負けず嫌いと真面目な性格で仕事以外の時間でも勉強をたくさんし、会社の仕事もすぐにできるようになりました。幸いなことにプロジェクトなどをまとめる力もあったので、会社ではプロジェクトマネージャとして活躍できていました。その活躍のおかげで給料も同年代の人の平均と比較したら格段に多くもらっていたし、お金をたくさんもらっているんだからとママに対しても傲慢な態度で接していたことも少なからずありました。たくさんお金をもらってるんだからパパにとっての家庭とは体と心を癒やすところ、家事をこなそうなんてことは考えることもありませんでした。ほんとうにひどい男です。当時のパパはその会社で役員、社長とどんどん出世していこうと本気で考えていましたから、少しの体と心の無理は当たり前、自分の心と向き合うことも無くただひたすらに仕事をしていました。ママと結婚した当時にパパがプロジェクトマネージャーとして勤務していた案件は、ほんとうに忙しく、毎日、朝方まで仕事をしてタクシーで自宅に帰る。ママの作ってくれていた食事を食べ、そして朝からまた仕事に行く。そんな期間が長くつづきました。でもこのプロジェクトには協力的で無い人もたくさんいたけど、チーム内の一部の人たちでは、なんとなく一丸となって頑張っていく雰囲気もあって、苦しいながらも充実していた毎日でした。いつも疲れていてママに迷惑をかけてしまうこともあったけど、出世は順調にしていたし、そのことをママも喜んでくれていました。この頃はまだ30歳ぐらいだったし体力もあったから、全力でプロジェクトに対して挑み、結果としてはプロジェクトは成功を収め、パパのサラリーマン人生では一番輝いていた瞬間だったと思います。そして、そのプロジェクトの後どうしてもやる気が乗らない期間がありました。燃え尽き症候群だったのだと思います。どうしても仕事に気が向かない時間が長く続いて、今の仕事が果たして生涯勤め上げていくべき職業なのかどうかを疑問に感じ始めました。こんな体力のいる仕事を本当に生涯にわたって続けていくことができるのかと感じるようにもなりました。すると、それと呼応するかのようにパパの出世もピタリと止まりました。どうしても仕事に対してやる気が起きない。そんな期間が半年は続いたと思います。そんなときあるやりがいのある仕事を任せられることになりました。新しい大きな取引先にまずはと1人で乗り込んで、そこから自社との取引を拡大させる。そんなミッションでした。太郎が生まれるのとちょうど同時期でしたから、今の仕事を続けることへの将来への不安を抱えながらも、そして、そのことはそっと心の奥にしまい込んだまま、またもや猛烈に仕事への情熱を傾けることになったのです。まずはキーマンの人と懇意になる。昼の業務面で頑張ることはもちろん、夜もキーマンを見つけては飲み会、ゴルフと休日まで仕事のために時間を使う生活になっていきました。順調に自社の取引は拡大していきましたが、取引先との関係から弱い立場で仕事をせざるを得ない部分もり、へりくだっていることがほとんどの毎日でストレスはどんどん蓄積していきます。そのストレスを同僚との愚痴りあいで解消し、当時生まれたばかりの太郎と少しばかりふれあい癒やされる。そういったことで自分をごまかしながら、2年ほど月日が流れました。その頃には取引先には自社の仲間が10人以上になっていました。ミッションは成功です。しかしパパの心はもう壊れかけていました。どうにも周りの環境が許せなかったのです。取引先の人たちは自分を守ることばかり、いつも面倒なことにはパパが先頭に立たされていました。ストレスが家族に向かうことも多々あり自己嫌悪に陥ることもおおかった。本当に自分はこのままで良いのか。まだ3歳ぐらいの太郎に怒鳴ってしまうことだってありました。いけないことだとわかっていても、自分を抑えることができない。大声をだしてしまう。何十回ママを泣かせたかわかりません。ある日ママはパパに「仕事を辞めて欲しい」と言いました。パパはママをそこまで追い詰めていたのです。家族を守らなくてはいけない。この悪循環を止めなくてはいけない。パパは当時渋谷にできたばかりのヒカリエの展望台で会社を辞める決断をしました。そして2012年12月会社へ退職の意思を示したのです。会社からの返事は、今辞めさせるわけにはいかない、せめて半年は頑張れ、代わりはいないんだ、会社に砂をかけることになる、そんな感じだったと思います。お世話になった会社を裏切ることになる、このまま辞めたら周りからどう思われるのか。そんなことをぐるぐるぐるぐる考えさらにストレスがたまる毎日、そのストレスが家族にまた向かう。悪循環、もう限界。忘れもしない2012年12月24日、世間はクリスマスイブ。パパはママにこう伝えました。

「もうだめかもしれない。病院に行ってくる」
続く

18歳ぐらいになったら君たちにこれを知ってほしい。
【自分の心】を大切にしないとこういうことになります。
いまから書くのはパパが35歳、ママが32歳くらいの出来事。

ある日の朝、パパはママにこう言った
「もうだめかもしれない。病院に行ってくる」

前兆はもっと前からありました。会社から帰宅するのはいつも0時過ぎ。
ママは食事を作り、ただ配膳をするためだけにいつも起きて待っていました。
「おいしい?」ママの何でもない一言に素直に返事ができませんでした。
「今ようやく自由な時間なんだ、話しかけないでくれ」
「話しかけて良くなったら教えてね」
あまりにも悲しい会話。もう周りのことなんて見えない。
自分がいかにして明日の出社までに気力を回復させるか。
それだけしか見えていませんでした。
なんでも無いタイミングで茶碗を落とすこともしばしば。
口にするものの味さえ感じない時期だってありました。

当時はこう思っていました。
なぜ俺だけがいつも矢面に立たされるのだ。なぜ周りの奴らは無責任に返ってしまうのだ。俺がいなかったらどうなる?自分が司会をしている会議で、報告を自分が行い、その内容を自分で議事録にする?あり得ない。周りの奴らがもう少し有能であれば。
それでも立場上いろいろなところでぺこぺこぺこぺこ。朝方に近い帰り道のタクシーの中。もう勘弁してくれ。もう勘弁してくれ。
一方で、そんな日々の中、思うように出世できない、もう一歩踏み出しきれない自分にもいらだっていました。そして、このままこの仕事を続けるべきかもその1年ほど前から悩んでいたのです。
パパとママの信頼関係にも少しずつひびが入り始めていました。仕事に忙しく、イライラしがちで大きな声を出してけんかをすることもしょっちゅうありました。あるときスイッチが入ってしまうとまったく自分をコントロールできない。そんな最悪の時期にあっても暴力を振るうことが無かったことが唯一の救いでした。その一線をもしも越えてしまっていたら。今の家族の姿はまったく違ったものになっていたか、もしくは家族そのものは無くなってしまっていたでしょう。
家庭、仕事、どちらもうまくいかないこんな状況が1年は続いたと思います。
前の日にもママと言い争いをしていたある日の朝、音もなくパパの心は折れました。

「もうだめかもしれない。病院に行ってくる」

パパとママは泣きました。

近くの心療内科で設問が30個ぐらい並ぶチェックシートのようなものに回答しただけだったと思います。先生との簡単な会話の後にパパはうつ病と診断されたのでした。
2012年12月24日の出来事です。
22歳からサラリーマン生活を始め12年。それまで必死に努力をしてきたと自分でも思っていました。でも楽しくて仕事をしていたわけではなかったのです。完全に電源が切れた瞬間です。
その頃のパパとママは、それより前の期間におきたいろいろな出来事の積み重ねにより、決して良い関係の夫婦であるとはいえない状態でした。
パパはもう俺は病気になるほど頑張ったんだ。後はおまえが俺を支えるべきだ。この病気を治すために一緒に頑張ってくれ。と一方的に主張。
ママはもう十分頑張っている。これ以上何を頑張れば良いの?子どもの世話だってあるのよ。何をどのように頑張れば良いかわからない。と考えていたと思います。
こんな状況の中でどうやってこの病気と対峙していくのか。心療内科の待合室、全く先が見えない状況で先が真っ暗だったことだけを覚えています。途中で投げ出してしまう仕事もたくさんあったし、そのときにはまだ、年末年始だけを自宅で休んで年初の出社日からは仕事に復帰するつもりでいました。だけど、そんなに簡単にはいきませんでした。重要な役割を果たしていた人が突然出社しなくなったのです、その診断から4日間の間、自宅にはいたものの仕事の問い合わせも多く入り全く休まることはありませんでした。会社のメンバーには単なる胃腸炎と説明していましたから当然のことではあったのかもしれません。年始になるとさすがに直接の連絡は途絶えますが、今度はパパの心の中での葛藤が始まります。本当にあの場所に戻ってまた仕事ができるのか、今一番大事にするべきは家族では無いのか、単なる仕事の関係でしかない取引先の人たちのために自分の唯一の人生を犠牲にするのか、今までお世話になった会社に迷惑をかけることになる早く復帰しなくては、突然一週間も休むのなんてみっともない、会社に退職の意思は伝えているが合意はできていない、もしも残ることになった場合これ以上休めば降格は確実だ、そもそも収入はどうする、このまま病気で立ち直れなければ家族の収入はどうなる、ここまで積み上げてきたキャリアはすべて捨てるのか、仕事に復帰か、心を治すのが先決か、だめだ。またあの場所で仕事をするのはもう無理だ。もっと巨大なストレスでまた家族を傷つけてしまう。もう解放してくれ。

会社には3月までの休職を申し出て受理されました。

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